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自分を見つめ直す

 いつぶりでしょうか。この全く冴えない雲空の下、わたしは乗り継ぎバスで、実家に帰省しています。12月に仕事で沖縄に伺った際にも一人になる時間が出来たので、自分と向き合いました。そして今回も向き合っています。
 

自分と向き合うとは何か?

 何者でもないわたしは、いったい誰なのか。何を使命としてこの世で生きていかねばならぬのか。明日死ぬかもしれない確率の中で(実際はそんな事ほとんど無いけどゼロではない)、残り50年ぐらいをどう生きるのか、そんな事を無機質の塊でしかない、コンクリートロードの上で考えています。
 
 昔の高速バスとは違ってだいぶ楽になったリクライニングシートが爆弾を抱えるわたしの腰を優しく包み込んでくれているし、長い足もすっぽり入るこの空間に安堵を覚えます。
 

安心感があるから思考が廻る

 Wi-fiがあるバスではないので、平野啓一郎のマチネの終わりにと、ジョージ・オーウェルの1984を読む準備をしながら、この文章を書いています。窓の外は4月とは思えない肌寒さ、桜もろくに咲いていない「あぁ、プチ氷河期が来たのかもしれないね」と言われればそうかもと、納得できてしまうかもしれません。
 
 そんな、寒々しい世界とは無縁なバスの室温が妙に心地よく、春はあけぼの〜なんて思ったりします。もちろん桜なんて咲いてないですよ。
 
 こんな安心感が、わたしの思考を上手く廻らせてくれるのです。ここ数日、noteを書いていてうまい表現が、納得できる表現が、ポンポンポンポン出てきます。書くことの楽しさがここにきて、八分咲きしたのかもしれません。春ですからね。
 
 そうなんです。ここに明確な答えがあったのです。この何が楽しいのかという点において、わたしと、そしてもう一人のわたしが相反していたという事にようやく気がつきました。そもそも事の発端は小説を書ききることが出来ないから、神話理論を探し当てました、でもツールがありませんでした。という点において他なりません。そうすると、本来的にはサーヴィスから先に作るべきではなくコンテンツから作り、販売する必要がありました。
 
 しかし、長年(なんと16年も!)コンピュータを作る仕事をしていたので、どうしてもプラットフォーム思考というか、プロダクト思考になりがちです。そんな最中、アクセラレータプログラム的なものに参加が認められましたので、その傾向はより顕著になります。そもそも立ち上がってないのに、立ち上げようとしてはいけません。
 
 とにかく、自分で全力を出した作品を作ることにもっともっと、トライしても良かったんじゃないか、そう思います。ですが、こらは言い訳になりますが、ネタが出なかったのも事実です。今になって、ポンポン出てくるのは皮肉以外の何者でもありません。かといって、ネット小説として、そういったサイトに公開して読まれる作品でもないので、もっと違うアプローチは考えています。
 

他人のサポート前に、自らをサポートしよう

 そういう事もあって、もっと作品出していけばよくない?と思っています。プラットフォームの維持の話もありますが、もっとしっかりといち作家としてものづくりしていけば良いと思いました。
 
 それに合わせて、現在の間違いの多いサーヴィスを、どう直していくのか、何が必要で何が不必要なのかを選択したいと思います。とりあえずフロントエンドの大幅な見直しが必要なのは間違いないです。
 
 元々のわたしをサポートをしてくれるサーヴィスとしての位置付けに立ち戻り、もっとシンプルに作り変えていく方が良いと思いました。
 
 いずれにせよ、失敗は失敗と認めるところから始めるのが、オトナの責務かなと思いました。偽りの自分よ、さようなら。