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私が世の中にないものを創り出す理由
いわゆる、古いIT業界に入ってから20年近くが経過しようとしている。わたしはSIerという、受託開発がメインの会社にSE採用で入った人間だった。しかし、その会社の求める水準の技術的な素養が足りなかったらしく、営業に回ることに。数学的考え方があまりなかったのと、そもそもプログラムにそこまで強くない。今でこそ自分である程度物によっては書けるが、当時はアルゴリズムだけなので、数理モデルを理解して実装することが求められていた。
さて、そんなことなのでその後営業に回るわけだが、この営業という名前が厄介で、実際は技術営業であるから、ドアノックはほとんどしない。だから新規営業というものは大してやったことがなかった。営業的な素養もないので、どうやったら新規を取れるのかもピンとこない。しかし、弁が立つので営業できるだろうとなってしまう。
わたしは、そういう人間ではないのだ。強いていうならばエヴァンジェリストだと思う。だから、セミナーなどは強いがプレゼンテーションが強いわけではない。即興の質問に応えられるだけの知識と機転は持ち合わせるが、深い話は難しい。
今は、そんなことは云ってられないので、当然なんでもやるが当時は出来ないものは出来ないという姿勢だった。それを崩そうと大人たちがあれこれやってくるわけだ。ホント迷惑だった。今のゆとり世代の子たちの走りだと思ってもらえれば良い。そのくせ、自己実現したいだけの夢もない。意識だけが高いので、そういうビジネス書やセミナーにはさんざん出向くし、mixiコミュニティで活動もバンバンやる。
今の大学生と対して変わらない事を18歳-22歳ぐらいはよくやっていた。そんな中21から22歳ごろに、国のIT化、ネット化の煽りでインターネットサービスを立ち上げることになった。既にあった120億円掛けたシステムは使われないことに苛立った某長官の下命でひっそりとプロジェクトは走り出す。
最新の言語、最新のOS、最新のサーバ環境を用意し、数カ月の間で資金の工面も含めて話はトントン拍子に進んでいった。そして、運命の2月始め。無事かどうし、大量のトラフィックが流れ込む。サーバダウンもなく無事リリースが出来た。初年度から思ったような運用ができてよかったと思う。 そう思うと、大人たちを巻き込んでよくやったなと思った。その翌年、そのプロジェクトは僕の手から先輩に渡り、そして大事故が起きる。トラフィックバーストだ。ロードバランサのパワーが足りない、サーバが足りない。クラウドはないから全部調達含めてセットアップを2週間でやらなければ行けないという地獄が始まった。
Yahooに広告を掲載することをお客さんが突然決めて、Yahooトップに掲載することの恐ろしさ、Yahoo砲を身をもって経験したのだ。それが一週間続く。その後もその効果は絶大で止まらないトラフィックバースト。寝ずに手動ガベージコレクションが続く。
怒号が飛び交うなか、国から訴訟されかけたり、努力が認められないなどが続く。努力など意味がない、結果が全てだというのをこの時覚えたのだ。世の中頑張る頑張らないなど意味がなく、結果を出したやつだけが勝つのだ。ただ、頑張ってやった努力が正しければ結果が続く唯それだけの世界だ。
とりあえず、そこから莫大な予算外の追加コストを請求される。そして、僕はその責任を言われ会社を辞めるか部署異動を言い渡される。正直この時部署異動を受け入れたが、辞めていたら人生は変わっていたかもしれないと、今なら思う。時はITバブルが弾けた直後だ。楽天、ソフトバンク、サイバーエージェント、ライブドアのどれかに入ったかもしれない。そして、入っていたら今の自分はもっと違うところにいたのかもしれない。なんてifを考えるのは楽しいが、自分の選択に後悔など出来ないので、いまさらである。
さて、お題とだいぶ乖離したように思われるが、つまり若いときから世の中に絶対存在しないオンリーワンの絶対的なソリューションしか提供して来ず、更にその時点での最新のテクノロジーを実装レベルで組み合わせてきた経験が、インターネットとITとリアルソリューションとの融合による社会実装という現実解を導き出したとおも思う。
そんなこんなで、現在は社会実装系インターネットソリューションへの投資が花盛りだが、単体ソリューションだけで生き残れるほど、IT業界は簡単ではない。それは長くやってきた人ほどそれを感じているはずだ。ただ、それはこれまでのコンピュータ側がリアル側の要望を聞いてパッケージングしてきたからであり、今起こっているのはリアルビジネス側で経験してきた人間が、インターネット的な文脈で、再現しようとしている。それをサポートする人間は増えたが、長期的な視野で実装されているのかというとまだまだ疑問だ。
わたしは、今まで全くやってこなかった文脈(エンタメ)で社会に実装しようとしているのか、というと「人々を感動させる事実があれば、争いは止められる。」ということが先にあるからでしかない。昔、架空のロッカーが「戦争なんかくだらねーぜ!オレの歌を聞け!」そういうノリである。
あれはダイレクトに心に響いた。だから、宇宙時代のエンターテイメント=世界平和なのである。実にくだらない。だが、それは真実だ。もっと言えば、世界平和も小さすぎる。宇宙人があらわれた時点で宇宙平和、銀河の平和を守るべきで、それは既にウルトラマンの仕事なのだが、力で宇宙怪獣や宇宙人を押さえつけるウルトラマンは前時代的だ。やはり、人々を感動させ熱狂させるものが真実の平和につながる。
人は暇になったり停滞すると暴力的になる。つまり戦争とは健全ではない競争であり、健全な切磋琢磨な競争社会とは無縁なのだ。血で血を争う無意味な戦いをいい加減の終わらせるためには、心を揺さぶるしか無い。それは人の力なのは間違いない。オルレアンの聖女も結局のところは歌の一つも歌えれば、死なずに済んだのかもしれないが、彼女はリュートの代わりに剣をも持ってしまった。
剣と銃をペンとノート、ギターとマイク、その攻撃的な精神を愛に変えるために。わたしは宇宙時代のリビングを支配したいと思う。