僕らはお金が無くてもサービス出来た。 ...
会社とは何かを考える
会社とは、誰かの想いを実現するための器なんだろうと思うに至ったのでもう少しだけ書いてみようと思う。
つい最近まで、こんなこと思うことは一切なかったのだが、私はある窮地に立たされている。一切そんなことを見せていないが、事実は事実だ。(知っている人はしっていると話である)
そこで、私はHardThingsに書かれたとおりの事を思うに至ったわけだが、私という世界が心の中から消えたというのが実際のところだ。世界の中心が私ではなくなった。会社というものと完全に同化した気がした。
答えは簡単で、私の想いを叶えるための会社という存在から、私の思いに応えて、私に付いてきてくれる人たちのためには諦められないと思うに至ったからだ。
だから、普通だったら止めていたし、やっぱり「俺って運がねーな」で終わっていたと思う。だが、今はそういうことよりも、単純に思いを載せた船である会社という存在は、もう止められないので、漕ぎ続けるためにどうすべきかだけを真剣に考えるようになった。
私という存在が公的になる瞬間なんだろうと思った。私企業とはいうものの、みんなの思いを載せた元気玉みたいな状態になったのだから、これをどうすべきか船長としては港に戻ることも沈めることも出来ない。次の港に向かってすすめるしかない。
だからワンピースなんだろうしキングダムなんだろうと思った。私にはこの感情が根本的に欠落していたが、ようやく身についた気がした。
優しいだけでも、厳しいだけでもだめで、私という存在はより遠くを見つめる必要があり、その視線の先にある未来を見つめ続けなければいけない。孫さん曰く「困ったときは遠くを見よ」であるが、まさにそのとおりだ。
私にはメンターと呼ばれる明確な存在はいないのだが、孫さんの言葉はよく思い出しているし、遠くに亡くなったおじいちゃんの言葉は常に心のなかにある。それで良いのかもしれない。最近では松下幸之助の本を読んで、言葉を噛み締めている。PHP出版バンザイである。
人間、危機を感じなければ成長しないが、死の淵を経験すればその反動で大きく成長する。昨日、立川志の彦さんの落語で、田畑を売ってしまった田舎の庄屋が都会にでてきて3文の資金から10年で大きな蔵を3つ持つぐらいまで商売人として成長した話を聞いたとき、その葛藤と窮地から活路を見出す時、本当の力が発揮されるのだということだということを理解した。古典落語に込められた人間の生き様は非常に面白く、呼ばれた席ではあったが、今日はこのためにこの落語に呼ばれたのだなと感じた。
商売をする際、少ない資本で現金を生む必要性がある。一日でも早く現金を生むためにどうすればよいのか。そんな、ビジネスの基本が詰まっていた落語であった。
落ちは言えないが、謙虚に向き合えば人も付いてきて、発展もするということだとは感じた。古来から商売の基本は何も変わっていない。私は、私を信じてくれる人へ最大限の恩返しをする必要がある。
そのためにも、今は会社という船を止めることは出来ないのである。私は慌てないが、速やかに行動をする。