「趣味がいい」ってそんなにエライ?——趣味をバカにされたことがあるすべての人たちへ

「趣味のよさ」でマウンティングされる世界

年末年始に放送される「芸能人格付けチェック」という番組。そこでは、「高級食材や高級ワインを味わい分けられるか?」「高級楽器を聞き分けられるか?」「プロが生けた花を見抜けるか?」といった問題に芸能人がチャレンジし、それによって一流・二流……と「格付け」される。

つまり、「良い趣味」を持っているかどうかが、芸能人としての、さらには人間としての品位を決めるのだ。そして、GACKTはすごい、みたいなことになる。

〈優れたもの=高価なもの〉で、〈高価なもの=優れたもの〉、そして〈高価なものがわかる人=優れたものが分かる人=趣味の良い人〉。

そんな図式がこの番組内では自明のものとしてあって、絶対的な基準となっている。

だが、そんな番組の外では、もっと複雑で多様な基準によって、人間は普段から「趣味」でお互いを「格付け」し合い、「マウンティング」し合っている。

趣味を聞かれてなぜ口ごもる?

人に言えない趣味を一つや二つ持っている人は多いだろう。

あるいは、「趣味は音楽鑑賞です」とまでは堂々と言えても、具体的に何を聴いているのか聞かれると、答えに窮してしまったり、「この歌手の名前は出さないでおこう……」と思いとどまったり、無難なグループを挙げてごまかしたりした経験のある人は、わりといるのではないだろうか。ほかにも、好きなマンガ・アニメとか、好きな芸能人とか、好きな異性のタイプとか、休日の過ごし方なんかを聞かれたときも……。

でも、なぜそんなことになってしまうのだろうか。

自分の趣味が「ダサい」から? 「幼稚」だから? 「低俗」だから?

自分の好きなものなんだから、堂々と言えばいいではないか。

実際、日本語には

「蓼食う虫も好き好き」

フランス語には

「趣味と色については、議論しても始まらない(des goûts et des couleurs, on ne discute pas)」

といった言い回しがあるように、趣味が人ごとに違うのは、いわば当たり前のこととされている。

たとえば音楽を例にとってみても、現代音楽に心酔している人もいれば、メタルが好きな人、ジャズが好きな人、アニソンが好きな人、「洋楽」しか聴かない人、流行りものならなんでも追う人……と、様々だ。

では、私たちは、そのような趣味の多様さをそのまま受け入れているのだろうか。「みんなちがって、みんないい」のだろうか。

そんなことはないだろう。

実際、趣味については、違いや多様性のみならず、〈良し悪し〉も語られる。相手の趣味の「高尚さ」に畏れ入ったり、反対に、その「俗っぽさ」を見下したりする。 だから、私たちは、自分の趣味について語るとき、ふいに口ごもってしまったり、嘘をついたりしてしまうのだ。

趣味に貴賤あり

「高尚な趣味」を持っている人、「高級芸術」に対する審美眼を持っている人、何がなんだかわからないような作品を、なんの衒いもなく享受できる人……。

その人たちが素晴らしいと口を揃えて賞賛している作品を、試しに自分も鑑賞してみたところで、やっぱり自分には分からなくて、せいぜい分かったふりをするくらいしかできないのは、どうしてだろう? 生まれながらにして「良き趣味」を持っているかのような「趣味の貴族」たちと、そうでない「趣味の平民」たちとの違いは、なぜ生まれるのだろう?

「趣味に貴賤なし」とは言いがたい状況が、確かに存在しているみたいだ。

ここで、「職業に貴賤なし」に倣った表現を用いたのには理由がある。「職業の貴賤」と「趣味の貴賤」は密接に関係しているのであり、このことを膨大なアンケート調査とその分析を通じて、実証的に明らかにしたのが、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの大著『ディスタンクシオン』である。

題名になっているフランス語のディスタンクシオン(distinction)は、区別・識別のほかに、卓越性や上品さという意味も持っている。つまりこの語は、単に〈人や物を分けること〉のみならず、〈自分を他人から区別し、自分を際立てること〉をも意味するのである(この点について詳しくは、訳者の石井洋二郎による解説書『差異と欲望』の第四章冒頭を参照されたい)。

ブルデューがアンケート調査によって明らかにしたのは、

あらゆる文化的慣習行動(美術館を訪れること、コンサートに通うこと、展覧会を見に行くこと、読書をすること、等々)および文学・絵画・音楽などの選好は、まず教育水準〔中略〕に、そして二次的には出身階層に、密接に結びついていること

『ディスタンクシオン』序文

である。

つまり私たちが何を趣味とするかは、受けた教育の水準と、生まれた家庭の経済的・文化的な裕福さによって強く影響されるのである(もちろん、決定されるのではない)。

ブルデューが「文化貴族」と呼ぶ人々は、生まれたときから、文化的に正統性の高い(とされる)ものに触れる機会が多く(たとえば、ピアノやヴァイオリンが家にあり、練習環境も整っており、幼い頃からよくコンサートに連れて行かれた、といったかたちで)、それに自然と親しむうちに、自らの趣味とすることができるような人々なのである。

さらに、そのような社会的地位の高い者たちが身につけた趣味は、地位の高い者たちが身につけていることによって、その正統性をさらに維持し、強化していくのである。

一方、経済的にも文化的にも貧しい家庭に生まれた者たちは、正統性の高い文化に触れる機会が限られているため、あらかじめ趣味の選択肢が狭められており、「高尚」な趣味を持つこともまれなのである。

それどころか、そのような人々が「高尚」な趣味を持とうとすると、「背伸びしている」だとか、スノッブだとか言われ、出る杭は打たれてしまう。

それゆえ、

もろもろの趣味は、『階級』を示す特権的指標として機能する傾向をもつ

『ディスタンクシオン』序文(強調は引用者)

のである。

もちろん、「階級」間を移動することは可能である。貧しい家庭に生まれても、高等教育を受けることができ、一財を築けたならば、少なくとも経済的には、上流階級に移動することになる。

とはいえ、今度はその階級内で「成り上がり」とみなされ、古くからその階級に属している「貴族」たちの卓越性(distinciton)を目の当たりにすることになる。たとえば、「貴族」たちが難なく味わい分けている高級ワインの違いが分からなかったり、彼らが幼い頃に体得したテーブルマナーを、ぎこちなく模倣するしかなかったりすることによって。

趣味の話で疲れた心への処方箋?

このように私たちの社会においては、「階級間」でも、「階級内」でも、文化的な営みを通じて「バトル」や「マウンティング」が繰り広げられているのである。おそらく私たちは、この争いの外に出ることはできない。

望まぬ戦いに巻き込まれて傷つき、疲れ果ててしまう人もいるだろう。だが、そのような人にこそ、この戦いの力関係を客観的に描き出す『ディスタンクシオン』は、ある種の救いや希望をもたらすのではないだろうか。

なぜなら、『ディスタンクシオン』を通じて、「趣味の争い」のなかで偉そうにしている人たち、人の趣味をバカにしてくる人たち、マウンティングしてくる人たちのいい加減さ、根拠のなさも見えてくるのだから。


ブルデューの文章は、とにかく長ったらしく、非常に読みにくい。しかも、高めの価格設定。

そこでおすすめしたいのが、『ディスタンクシオン』の訳者石井洋二郎が書いた解説本『差異と欲望』である。本書はブルデューの議論を、実例も交えつつ、現代日本にも当てはめつつ、解説してくれているので、非常にわかりやすい。『ディスタンクシオン』そのものもぜひ手にとって頂きたいが、まずは『差異と欲望』から入るのが良いだろう。

それから、〈フランス人思想家あるある〉として、文章は非常に難解だがインタビューは極めて明快、というのがあるが、ブルデューにももれなくそれが当てはまる。こちらの本にロング・インタビューが収録されているので、『ディスタンクシオン』に限らず、ブルデューの仕事についての見取り図を作るのにはうってつけだ。