『えんとつ町のプペル』はリレーショナル・アートか?

『えんとつ町のプペル』はアートか?

Facebookの投稿で、『えんとつ町のプペル』は絵本単体で完結した「作品」ではなく、それが生まれるに至るまでのプロセスも含めて「作品」であり、メディアアートとして、美術として語るべきだ、というような話を見かけた。

なんかそれっぽく聞こえるけど、でも、『えんとつ町のプペル』は本当にアートなんだろうか? 上記の通り、現にアートだと主張する人はいるけれど、「それってその人の主観にすぎないのでは?」とか「なんだよプロセスも含めて作品って(笑)」とか思う人もいるだろう。

そんな問題について、美学や現代アートの状況からアプローチしてみた。

アートかどうかは、アートワールドが決める

はじめに断っておくと、美学芸術学という「美とは何か」「芸術とは何か」みたいなメタ的なことを考える学問に触れている身としては、あるモノがアートか否かを決めるというのは、正直なところどうでもよい。

美学者のなかでも立場はさまざまだが、僕の立場としては、アートを取り巻く人々が、あるモノをアートと認めるようになればアートなのであって、作品それ自体に備わった「アートの本質」のようなものが確固としてあるのではないし、作者が「これはアートだ!」と叫んだところで、周りの人、特に美術館や芸術評論家たちが認めなければ、それはアートとは言えない。結局、芸術か否かは、それを取り巻く環境や歴史的文脈に応じて決まるわけだ。

これは、美学において、アートワールドとか芸術制度論とか言われるようなトピックの議論である(これに簡単に触れられる日本語の本としては、『美学への招待』が挙げられる)。

だから、このエントリーのタイトルに対する僕の答えとしては、そもそも僕にはそれを決められる立場も権限もないし、そんなのどっちでもいい、というものになる。もちろん、アートにカテゴライズしたほうが、より豊かな作品鑑賞・批評が可能になるならば、そうカテゴライズすればよいと思うし、先に触れたFacebookの投稿もそういう趣旨のものだと思うが、カテゴライズの先に見えるもの抜きにして、アートか否かだけを主観的に語り合うのはナンセンスだろう。

とはいえ、昨今アートと呼ばれているものに目を向けてみると、「これがアートなら、『えんとつ町のプペル』もアートで良いのでは?」と思えてくる。

美術館でカレーをふるまうのはアートか?

例えば、リクリット・ティラバーニャ(1961─)という人の「作品」は、「リレーショナル・アート」と呼ばれている。なぜ作品という語にカッコをつけたかというと、彼がやっているのは、画廊でパッタイやタイカレーを振る舞う、というパフォーマンスだからだ。

正直、画廊でカレー振る舞ったという部分だけ切り取ると、ものすごくしょうもないことのように思えるし、誰でもできるし、こういうのを実のところよくわかっていないのにアートだともてはやしてセンスあるぶっている人とか、そういう人を見て「現代アートうざい」みたいになる人とかもいると思う。

ティラバーニャをどう思うかは別にしても、こういった観客を巻き込むこと自体が作品だったり、観客を制作のプロセスに参加させたりする「リレーショナル・アート」「参加型アート」と呼ばれるものは非常にメジャーなものになっている。

となると、

  1. クラウドファンディングによって企画段階から多くの人を巻き込み、
  2. 何人ものクリエイターがチームとなって絵本を制作し、
  3. その制作プロセスも積極的に発信していき、
  4. ギャラリーという「アートワールド」を構成するエスタブリッシュメントを利用して個展を開催し、
  5. しかも、個展開催プロセスにもファン=観客を巻き込んでいる、

という『えんとつ町のプペル』は、「リレーショナル・アート」「参加型アート」と呼ばれるだけの条件を満たしているようにも思える。

『えんとつ町のプペル』は(まだ)アートではない。

ただし、ティラバーニャと西野亮廣が大きく異なるのは、ティラバーニャは長年にわたって世界中の美術館で展覧会を開いており、世界的にアーティストとして認められている存在であることだ。

タイカレーも絵本もそれ自体で楽しめるし(それどころか、タイカレーより絵本のほうがもともとアートに近い存在だし)、どちらも観客をそのプロセスに巻き込んでいるけれど、それでも、ティラバーニャのほうが、圧倒的にアーティストなのだ。

だから、いくらティラバーニャのやっていることがアートとは思えなくても、われわれにできるのは「こんなのアートじゃない!」と主観的な不満を述べるか、「なぜこれはアートなのか?」あるいは「なぜこれはアートになったのか?」を問うしかない。

結局のところ、最初に述べたとおり、あるモノがアートか否かについては、美術館や高名な批評家集団のようなエスタブリッシュメントが、圧倒的な力を持って決めているのだ。

もちろん、実際にアートと見なされるに至るプロセスは複雑で、さまざまな要素が絡み合っている。美術館に所蔵されたら美術、というのは一番シンプルなプロセスに過ぎない。それに、美術館やギャラリーにも序列があって、町の「絵本ミュージアム」に収蔵されるのと、「MoMA」に収蔵されるのとでは、影響力がまったく違うわけだ。

だから、世界中の批評家が『えんとつ町のプペル』を取り上げたり、世界中の美術館に収蔵されたりした暁には、名実ともにアートとなるのであり、まだ『プペル』はその途上にあるだろう。アートは、生まれた瞬間からアートとは限らないのであり、後からアートにすることができるのだ(別に、制作者たちがそういうかたちでの認められ方を望んでいるとは思えないし、あくまで、一人でも多くの人に届けばよいのだろうけれど)。