なぜこのタイミングで起業なのか

ネタ出しが段々大変になってくるのでリアクション型に変えたいと思っていますが、知名度が低いのでもっと後棚とか思っている今日この頃です。

さて、良く何やるの?なんでやるの?と聞かれるのですが、もうこれは運命の導きとしか言いようが無く、今思えば子供の頃から私の道は決まっていたんじゃないかとさえ思う始末です。

印刷の自営業をやっていた我が家に、初めて家にパソコンが来たのは小学5年生の頃です。PC9801UVでした。このマシンは3.5インチFDD付きでBASICが書けるかどうかです。父親は仕事で使う為に買ったのですが、商魂というか会計ソフトと一太郎と花子で色々やろうとして、あんまりうまく行っていないようでした。そのうち、ピンボールゲームをひたすらしていたのを覚えています。

その時はプログラムとかに興味も無かったし、そういう本を取るよりも、読書ばかりしていたと思います。大体年間で300冊ぐらい読んでいたはずです。ほんと推理小説とか冒険小説、SFとかが大好きでひたすら読んでいました。漫画も読んでいましたが単行本買えなかったので、コロコロコミックを毎月読んでいました。(その当時は週刊少年ジャンプが最強のソーシャルメディアでした。バイラルのもとですので。でも、週刊なので毎週200円ぐらいだすのは親には言いづらかった訳です)

それから中学に進学し、授業でBASICを組む様な事もやり始めました。このとき総合という授業が何故かあって社会科の研究みたいな事を自分でテーマを決めてやっていました。これは先生のアイディアもあったからなのですが、どうやら実験校だったからというのもあるみたいですね。結果として江戸の小判の金の含有量を調べれば江戸の経済の変遷が良くわかり、幕府がどのように財政コントロールを行っていたのが良くわかるというものでした。これはまた機会があれば詳細をお伝えしますが、そんな事をしていたのでした。

その後、商業高校へ合格し情報科というCOBOLを組んでSEになるための授業を受ける訳ですが、結果知識としてのプログラミングで十分な人生がその後待っていました。どういう事かというと、その後には18歳ですぐに日立製作所へ就職しており、SEになれず営業(営業と言っても新規ではなくクライアントリレーションシップパートナー、つまりクローサー)をする事になった為です。高校時代にこのコンピュータの授業を受けた結果役に立ったのは親が大量の顧客情報をデータ化しないといけない仕事をうけた時に、泣きながら指一本でやっていたため、代わりに私が2時間ぐらいでパンチャーをやって上げたぐらいです。入力の正確性と速度と言う点で圧倒的だったので出来た事でしたが、こういう単純作業でも十分仕事になるんだなという時期だった様に思えます。ちなみに、この2時間で得たバイト代は1万円でした。(求めた訳ではありませんが、感謝されてくれました)人月に直せば、80万円/月です。この辺りから見えないものを売る事を徐々に理解し始めていたのかもしれません。ここで売ったのは私の時間もそうですが、データ化という部分のアウトソーシングではなく、課題解決として、あなたの代わりに私のスキルを使って代行して上げましょう。そうすれば、その先の印刷して納品する行程を早く出来ますよねというソリューションです。

ここをアウトソーシングというサービスで売るから安く買いたたかれる訳です。ここをソリューションという風に見せて納得していただけるかが、いわゆるソリューションビジネスの醍醐味となっています。案外これを理解されていない方が多いのが未だに残念です。(まぁ、言い方一つなんですけどね)

話は戻しますが営業と言っても実質PMのような仕事です。現場監督の様に年齢に関係せず、SEの現場とやるのではなく部課長クラスとやり取りします。私の場合は主任クラスと実行まで調整して、コンピュータの搬入立ち会い等の現場の管理も一人でやっていたのですが、建業法の範囲になるぐらいの大型工事が多い仕事だったので、ITゼネコンと言われる理由が良くわかります。

結果どっちの方があっていたのかというと、やはり現場のまとめをする方が性にあっていたという事でしょう。

その後、様々なプロジェクトに関わりつつ、10年勤めた日立を辞めてソフトバンクモバイルに転職します。この時、やはり孫正義という偉大なる実業家がテレビでモバイルインターネットだと叫んでいた事が一つのきっかけになっており、たまたまご縁あって転職する事が出来ました。その後、入ったらいきなりiPhoneが発売され、怒濤のような日々が始まり、元々外資だった事おあり人とのコミュニケーションの取り方が日系企業のそれとは全く違う事にも戸惑い、力が発揮出来ない日々が続きました。また、成長速度が全く違うため朝令”朝”改の日々も驚きの連続です。この時に通信関連の技術を持ち合わせていないのにセールスエンジニアとなっているというのがソフトバンクらしいと思いましたが、成長する機会を頂いた事に感謝しております。

その後社内の異動で出向でソフトバンクテレコムにて、Googleと共にGoogleAppsを売りまくるセールスエンジニアとなるのですが、この時に日立時代のスキルが発揮させる事が出来た訳です。営業とSEを両方やった事がプラスに働いたわけですが、なによりも目に見えない物を最後に説得させる、つまり信用を売るというのは、日系企業でなければ身に付かないのではないかと思います。出来る人は出来ると思いますが、基本商売は人です。人というものは信用と信頼でそのものを買うのです。これは昨日のネットバブルの崩壊でも書きましたが、一物一価にならなかったのは人が介在しているからに他ならず、購買というボタンをクリックするのは信用しているからに他ならない訳です。

そんなこんなで、歩んで来た道はどんな道を歩いてもちゃんと一本にしかならない様になっているんだなと言う事が良くわかりました。

そして、このタイミングでの起業と相成った訳ですが、そもそも独立は34歳でやると就職したぐらいから決めていたので、時期が来たからやったとしか言いようがありません。そのため、神のお導きなのです。

ちなみに、このタイミングで父親は60歳になり多分100年ぐらい続いた印刷業を廃業したという事を先日聞きました。

元々私の実家は、現在の山形市宮町という場所が最初ではなく、川合又六という方が多分明治ぐらいに田舎から出て来て作ったと聞きました。その後、子供がいなかった又六氏は養子として、曾祖父”浪司”さんを迎えたという事です。そこらか私の祖父に繋がるのですが、私の祖父”清司”さんも長男ではなく次男で、血がつながっていないという流れで、浪司さんも血が繋がっていないため最もかわいがったという事でした。その後私の父親と父親の兄が生まれる訳ですが、結局次男である私の父が次いで今に至る、親子4代で終わったという事になります。

ここで、店を畳んだ代わりに私が立ち上げるという感じが一つの運命的な流れだなというのがあります。また川合又六さんのように地方から出て来て立ち上げようとしていると言う点が面白いと思いました。血は繋がっていませんがここには一つの道がある様にしか思えません。ちなみに、33,34歳というのは祖父が戦争でシベリアに4年間強制労働で抑留されていたときからの復帰のタイミングだっだそうです。(多分・・・)

ちなみに、印刷業というのは当時はとても儲かっていてメディアを普及させる為のインフラの一部でした。しかし、コンピュータや大量印刷が必要な時代に単価は下落し、最大の稼ぎであった年賀状もセルフ印刷が主流になってしまってもうお金にならない時代。

だからといって紙は無くなりませんが、零細企業ビジネスとして成立させられるほど甘くはありません。元々20年ぐらい前から印刷は無くなる事を父親は預言していましたから、その通りに従ったまでなのではないでしょうか。そもそも父親は経営者としては向いてはおらず、勤め人だったのに家を強引継がされた人でしたので、かわいそうではありました。父親にはそんな状態から解放してもらった事に感謝しております。

さて、ではやらなければいけない事はなんなのでしょうか?

私主に3つを考えました。

1:従来までのスキルを活かしたITコンサルティングサービス

2:元々やりたかったWebサービスで世界中へ展開する

3:ローカル型O2Oでより地域に根強いtoBサービスを展開する

1はビジネスとしてスケールはあまり考えておりません。ご飯を食べるためだと考えております。2はまさにチャレンジです。これをやる為に辞めたといっても過言ではありません。しかし、ヒトモノカネの不足、そしてニーズすら不明という博打のようなチャレンジです。しかし、これぐらいやら無いと世の中を動かしていく事は出来ないかもしれません。そして3はリアルにニーズがありそうなので、これはどっちかというとボランティアに近い形で、あったら結構便利だし良いよねという物です。なので、最も後回しかなと思っています。ただ、これを実装する為にはある特許が必要なのでハードルとかコストとかハードルは色々あります。(2の比じゃないですけどね)

ハードルは高くないと自分を下げる一方です。やり始めてから色々な方と会話するのですが、本と日々精進しか無いな、もっと勉強せねばと思う事が多くなりました。SIやコンサルティング、サーバ売る訳ではありません。私を売っている訳なのでなかなか大変です。しかし、これぐらい乗り越えられなければ、起業なんて辞めてしまって、さっさと再就職してしまえば良い訳です。一生、人の下で働く道もあるという事に、私は耐えられるのかというと多分耐えられないでしょうという事です。

世の中に価値ある何かを生み出す時、当然誰かはそれを理解出来ませんし、そう簡単に理解出来る物でもないと思います。その真意は深く広い物だと思います。しかし、ユーザはそんな事には見向きもしません。

だから、SIMPLE IS SMARTをキャッチとして掲げました。

私はSIMPLEに生きられない男です。だからこそ、複雑な物をSIMPLEにして賢く使ってもらえる様にする事を社是というか自分の中の一生のテーマにしてみようと思いました。

人の人生は複雑なんです。(これは年金のシステムをやっている時に覚えました。)

ですが、入り口は複雑ではない方がずっと良いに決まっています。Twitterもシンプルだからこそ複雑化していったんだと思います。同じくジャック・ドーシーが作り出したSquareもシンプルです。だからこそ、普及する。

複雑なのものをシンプルに。これだけは開発のテーマとしてずらしていけない物なのかなと考えています。

という事で、起業する意味はシンプルでもないしスマートでもありませんが、全ては運命だと私は思っていますので、引き続きご支援ご指導のほど宜しくお願い致します。